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捨てることに行き詰まりを感じ気がついたこと。 [捨てる]

ある程度捨てるとこれ以上捨てられないって
ところまでくることってないですか?


わたしは何回か段階を踏んでいます。


一番初めに捨て始めたきっかけは風水。
かなり捨てました。
このときは本が多かった。
大きな本棚1つをなくしました。
捨てられなかった受験の本まであったのです。


その次は2、3年後くらい
カレンキングストンの本を読んで。
ここでも前回に捨てた後だけど結構捨てました。

このときは食器や雑貨CDが多かったです。


さらに数年後、こんまりさん。
ここでは服をかなり捨てました。


と、かなり家の中から物が減ったにもかかわらず、
あまり見た目がすっきりしない。
押入れや引き出しに空間はできたけど、外に出ているものが
変わらない状態。


で、行き詰まってしまっているのですよ。
ここ数年。悶々と。


もうここまでくると、
ミニマリストの方の本読んでそれなりに刺激になるのだけど、
根本的な解決になっていない。


ものとの対話、ときめき、変な波動がたまって運気が落ちるとか
言われても、もうこれ以上は無理だなってところまで来たのです。


引っ越しするわけでもないからお尻に火もつかないし。


かといって、ミニマリストほどものが少なくなったわけでもない。
なんでだろう?とずっと考えていました。


高城剛さんの本で9割くらい一気に物を捨てられた話を読むと
人生変えるのに心を変えるより
物理的なものを捨てるほうが早いというようなことを言われています。


それはそうなんだろうけど、
高城さんはじめ一気に捨てられることができる人たちは
精神的なベースができているんじゃないだろうか?


(ベースができてなければ逆に捨てることで変わるっ
ていうことではあるとはわかるのですが)


ここまで来ても捨てられないもの、
もしくは
ものを捨てるのではなく人生を変えたくても変わらないとか
ある程度顕在意識で頑張ってもそれ以上変わらない行き詰まりを感じるってことは
潜在意識、観念、不要な信念をなんとかする方向へ
もっていくしかないんじゃないだろうかと気がついたわけです。



このあたりはエックハルトトールや都留晃一さんの想念観察
が参考になります。


今までものを捨てること(物理的なこと)
と想念観察(精神的なこと)は別物と捉えていた。
つい最近つながっているって気がついたのです。


想念観察とはなんぞや?って方もいるかと思いますので
補足しておきます。


心の中の会話をできれば常に少し俯瞰して
じーっと観察、内観する感じ。


そこでは判断はしない。
たとえば、何か思ってる自分を見つけてこう思っているんだなぁ〜って
気持ちを見つめているだけでいい。
だからダメなんだとか余計な感情を持たず
こういう風に思っている自分がいると認識するだけでいい。


なぜ捨てられないのか?
例えば服。
知人で捨てられないから高い服はもう買わないという方がいます。
その気持ちはすごくわかる。


じゃぁ、結局値段なのだろうか?
確かに安いもののほうが捨てやすい。


でも安いものでも捨てられないものもある。


捨ててもまた欲しくなったら買える価格のものでさえ、
もしくは
使っていない上にまた欲しくはなりそうにならないものであっても
捨てられないものもある。


突き詰めていくと根本的な原因は
自分に入ってくる物やお金に限界があると
思い込んでいることが原因ではないだろうか?


そこにはこんな時代だからどこか将来に不安という
気持ちも入っていたり、ほかにもいろんな信念がひっついていそう。


たったひとつのペン1本でさえ、
なんとなく捨てられずあるとするならば。


一定の段階を過ぎるとこのあたりの意識が変わらないと
捨てられないんじゃないだろうか?


無理してまで捨てなくてもいいとは思いますけど、
私はもう捨てたい。


自分がそういうものを信じているみたいだって気がつくだけでも、
それは観念、信念ではなくなるそうだ。
実感がないのでほんとかわからないけど。


すっごいセレブはもの捨てられるんですかね?
庶民よりはまた買えばいいってすんなり思えそうだから
捨てる罪悪感は少ないのかな?
これもものやお金は有限と思っていたら捨てられない?


いまはそんなことを一つ一つ自分に問いかけるようにしはじめています。
地味な作業だけど。



日本では捨てる、断捨離が流行っていましたよね。
だけど、もう次の段階に来ているんじゃないかな〜って思う。


読んでいただきありがとうございました★



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